beans book

 書斎の窓を開けると雨上がりの緑の香りがした。
2階のこの部屋からは隣の小さな公園とたくさんの家々と、その先には霧がかった山が見える。空はまだ曇ったままだ。

僕は木製のデスクに向かいノートパソコンを起動させる。
ツバメの声が高く響く、静かな日曜の朝だ。
妻と娘は2人で買い物へ出かけた。

高校生の娘は「パパは来なくてもいいよ」と言う。何年か前まで「パパ大好き」って言ってたあの子はどこに消えてしまったのか…。

僕はひとつ大げさにため息をついて、パソコンのファイルを開く。
文書データがいくつも並ぶ。そのほとんどは未完成の小説だ。

僕は齢50にして小説家を目指している。正確に言うと、もう何十年も目指し続けている。新人賞のコンペに応募しようと小説を書き始めては、日々の仕事に追われ、気が付けば締め切りが過ぎているのだった。そうした小説が僕のパソコンには眠っている。

普通に働きながら新人賞を取ったサラリーマンがいたが、きっと残業も休日出勤も付き合いの飲み会もないんだ!と、僕は心の中で悪態をつく。
ただの負け惜しみだと分かっている。

さて、眠っている小説を起こそうか。
そう思っていると、窓の外から僕を呼ぶ男の人の声が聞こえた。

「おーい!進んでるかね、執筆は!」

森本さんだ。森本さんの声は閑静な住宅街に響いた。僕は窓に近付き、公園に立つ森本さんの姿を確認してから

「普通に玄関のチャイムを鳴らしてくださいよ!」
と答えた。

森本さんはそれには答えず、手に持った白い箱を掲げた。

「私の手作りシュークリームだが、食べるかね?」

なんだ?今度はお菓子作りを始めたのか?僕は苦笑いをする。

森本さんとは17年の付き合いになる。子供を授かり、そろそろマイホームをという時に出会った。

マイホームを建てるための頭金が不足して、僕は自分の書斎を作ってもらう代わりに大事にしていたバイクを手放した。
そのバイクを買い取ってくれたのが森本さんだ。あの時、森本さんは65歳だったと思う。

「ずっと仕事人間だったからね。これから色んなことをしたいんだ」

バイクもそのひとつだった。
書斎のことを話すとその流れで僕の書いた小説を読んでみたいと言った。僕のNC30は、小説というおまけつきで、業者の見積もりよりも高値で買い取られていった。

おまけの小説の感想を僕は聞いたことがない。
「どうでしたか?」と尋ねる勇気が僕にはなかった。

マイホームが完成してから、週末になると森本さんはバイクに乗ってやってきた。
赤いバイクを乗りこなす森本さんはかっこよくて、僕はバイクを手放したことを少し後悔したものだ。

「今度はお菓子作りですか?」

豆から挽いたコーヒーにお湯を注ぎ、蒸らしながら80を過ぎた森本さんに僕は尋ねた。香ばしい香りがリビングに漂う。

「孫が甘いものが好きでね」

お孫さんの話をするときだけ、森本さんは“おじいちゃん”の顔になる。
森本さんは笑いながらシュークリームを取り出した。
バイクの次は、日本画で、それから写真や社交ダンスなんかもやっていたように記憶している。

コーヒーに螺旋を描きながらお湯を注ぐ。
抽出されるのを待つ間に棚からカップを取り出して、そういえばこのカップも森本さんの手作りだったなと、小さく笑う。
そこに茶褐色を注ぎいれる。森本さんにカップを差し出すと、鼻の近くまでカップを上げ、顔を左右に振る。

「今日もいい香りだな。いただきます」

そう言ってから口に含むのだ。これはもう儀式みたいなものだった。僕はその儀式を見届けてからシュークリームに手をつけた。

「いただきます」

かぶりついた瞬間「どうだね?」と尋ねられた。
そんなにすぐにおいしかどうかなんて分かるはずがないのに。
咀嚼するとバニラの香りが口の中に広がった。
カスタードクリームの甘さは控えめで、シュー生地にまぶされた粉砂糖の甘みがそれをうまく補っていた。

「美味しいです、すごく」

バランスの取れたシュークリーム。そんな感じがした。

「そうだろう?」

と森本さんは目を細めて笑った。

「シュークリームって手作りできるものなんですね?」

お菓子に詳しくない僕がそう尋ねると、森本さんは静かに

「この世に作れないものなんてきっとないんだよ」
そう答えた。

もう神の域だな、と思ったけれど口には出さなかった。
話をしたのは1時間くらいだったと思う。
今年の桜はどうだったとか、ツバメが軒下に巣を作ったとか、どうでもいいような話ばかりだった。

森本さんは玄関で靴を履きながら「執筆、どうかね?」と尋ねてきた。
いつも、このタイミングで僕の目を見ないで聞いてくる。
僕も決まって「いやぁ、まぁ」と曖昧な返事をする。

「冥土の土産に、もう一作くらい読ませてくれよ」

今度は目を見て豪快に笑った。
僕が目を合わせられなくなる。
これもいつもの流れだ。

手を振って帰る森本さんの背中が見えなくなるまで僕は玄関のドアにもたれて見送った。

そのやりとりが最後だった。

森本さんの訃報は5日後にやってきた。

『浦辺さんには私から直接お電話したくてね』

いつもより力のない声で、森本夫人が僕に電話をしてきた。

『お風呂に入っていて、そういえばいつもより長風呂だなぁとぼんやり思ってたら息子が見つけて…。そのときにはもう…』

僕は返事が出来なかった。

『でも気持ち良さそうな顔してたのよ。眠ってるかと思ったくらい』

葬儀は日曜日に行われた。
よく晴れて初夏を思わせる日だった。
かなり大規模な葬儀で弔問客が絶え間なく訪れてきた。

僕は人の多さに驚いて何をしに来たのか分からなくなった。
そういえば森本さんは大きな会社の社長をしていたと聞いたことがあった。
お焼香の際に森本さんが静かに眠っているのが見えた。
1週間前には、僕とコーヒーを飲んでいたのに。

森本さんがすっくりと体を起こして「執筆どうかね?」と言うんじゃないかと思ってぼんやり待っていると、葬儀会社の人に動くように促された。
我に返り、顔を上げると森本夫人と目が合った。
夫人は小さく微笑み、声を出さずに「ありがとう」と口を動かした。
その瞳が潤んでいるのが離れた所からでも分かった。

僕はずっとぼんやりとしていて、霊柩車が葬儀場を離れていくのをただ見ていた。

「浦辺さん、ですか?」

背後から名前を呼ばれ、僕は我に返る。

「浦辺さん、ですか?」

さっきより大きな声で呼びかけられる。
振り返ると見知らぬ中年の男性が立っていた。
僕より少し年下といった感じだった。

「そうですが、えっと…」

申し遅れました、と言いながら彼は背広の内ポケットから慣れた手つきで名刺を取り出した。
そこには彼の名前と出版社の社名が見て取れた。

「森本さんから頼まれていました。生前…」

そこで彼は言葉を詰まらせた。
彼もまた森本さんの死を受け入れられない一人だと分かった。

「森本さんから、あなたの小説を読ませてもらったことがあります」

「僕の小説を?」

「はい。森本さんからは『俺がいなくなったら面倒を見てくれ』と言われていました。
そういう言い方されると、すぐには『はい』と言えないですよね」
顔を見合わせて苦笑した。

彼は真面目な顔になり、
「森本さん『彼は何作か書き上げてるはずだから見てやってくれ』と仰ってました」
と真っ直ぐに言葉を発した。

森本さんは知っていたんだ。
本当は僕がいくつか小説を書き終えていたことを。
書き終えた小説を見せられずにいたことを。
この人と同じで、森本さんが「冥土の土産」と言うのが引っかかって小説を見せられなかった。

それに怖かった。
「面白くない」とか「こんなものか」と言われることが。
バイクと一緒に渡した小説だって、面白いと思ってくれたら森本さんから何か言ってくれるはずだと思って、勝手に答えを出していた。

彼の名刺に視線を落とす。
出版社の人に託してくれたことが答えだった。
急に視界が霞んだ。
こんな年になっても涙は枯れないのかと思った。

「お聞きしたいことがたくさんあります」

僕がそう言うと、彼は

「私もお話したいことがたくさんあります」
と言った。

「浦辺さんの美味しいコーヒーも飲んでみたいです」
彼はそう付け加えて小さく笑った。

そんなことまで…。
森本さん、あなたって人は…。

僕は空を仰いだ。清々しい青空が広がっていた。

そこに森本さんがいて、僕を見て優しく笑っている気がした。

 

『 きのうまでの物語 』 Saki Nagata